小代焼のしおり
※下記は、小代焼ふもと窯にて配布のしおり「小代焼のしおり」から引用させていただいております※
小代焼発祥の地は、小岱(小代)山を中心に須恵器窯群と多くの製鉄遺跡が散在する古代小代文化がしのばれるところです。
小代焼を創めたのは、文禄役出陣の際(一五九二~八)、加藤清正と共に来日した朝鮮の陶工韋発新九郎によるとされています。
その当時のものは肥後焼と称され、寛永二年(一六二五)の茶会には水指、茶碗等が使われ始め、その後の大茶会にも度々肥後ものが使われていることが、有名な松屋会記に記録されています。
細川忠利候の肥後移封(一六三二)後、小岱山の北側、現在の南関町宮尾に窯が移され、後に山奉行であった瀬上家も窯業に携わった。嘉永年間に始まった野田窯も昭和十年頃まで煙りを上げておりました。昭和初期には荒尾や熊本に小代焼の伝統を受け継ぐ窯も現れました。私もその一人としてはじめました。
小代焼の名称は江戸後期より使われはじめ、江戸時代を通じて庶民の生活によく適した逞しい焼物となり、その釉薬(うわぐすり)の深い美しさと自由奔放な流しかけの模様は器形と共に素朴な無限の魅力をもっています。古小代発祥の地に生まれ育った私が、その発祥の地にもっとも近い場所に開窯し、祖先の血と地の恵みをうけて、古小代焼の伝統を受け継ぐにはまことに得がたい結縁と使命を背負っているものと存じます。
皆様方の尚一層の御指導御鞭撻の程よろしくお願い申し上げる次第です。
敬白
小代焼 ふもと窯 井上泰秋